2016年4月23日土曜日

『項羽と劉邦 上』司馬遼太郎 ★★★★☆

おもしろい。





秦当時の人口は五千万と予想される。

あるとき隕石が落ちた。その隕石に始皇帝にとって不吉な文字が書かれていたために、かれは犯人をしらべさせた。が、ついにわからず、このためにかれはその隕石が落ちた付近の人間をことごとく殺してしまった。

皇帝という存在が貴族制度や礼教思想でもって鎧われていなかったために、そういうあんちょくな思いを野望家たちにもたせた。

劉邦は皇帝に対して無用に戦闘的な低更新はもたず、ただむやみにくびをふってうらやましがった。

これらを統御するには法律と刑罰と鞭による統御主義による以外になく、秦は早くからその方式を採用し、法家の国とされた。

元来、旧六国の遺民たちは秦を野蛮国と見、漢民族の血液が薄いと見て軽蔑していた。

北方の漢民族の『詩経』し対し、『楚辞』である。

この断髪一つでも、漢民族と決定的にちがう。
漢民族は髪をながくし、頭上でこぢんまりと束ねている。

北部の漢民族の特徴は、ごく近世にいたるまで水を怖れ、水泳ぎができず。まして江南人の民族的得意芸ともいうべき潜水ができず、逆にそういう所業を野蛮とした。

各地が開拓され、「中国」がはじめて大きな領域を占めるにいたるのはいわゆる春秋戦国時代(B.C.770〜 B.C.221)からである。

楚、呉、それに越はほぼ同民族とみていい。

倭と江南の連中は民族的特製が似てる。

ほとんどの体系はうそっぱちをひそかな基礎とし、それがうそっぱちとは思えなくするためにその基礎の上に構築される体系はできるだけ精密であることを必要とし、そのことに人智の限りが尽くされた。

軍の強弱は各休止期間の能力によって決まる。

二十万、五十万といったような流民の、食を確保しうる者がせけんから大英雄としてあつかわれ、ついには流民から王として推戴されたりする。

頭目の機能は、とりあえずは分配にあった。

この時代、将軍たる者は見るからに躯幹長大で強悍であるか、それとも神人かとおもわせるような異相をもっているか、そのどちらかであることが望ましい。

人の話のどういう場所にユーモアを感ずるかとういうことで、その人間の格調が察せられる、というのが項梁の人間観察のやりかたの一つだった。

無能の相棒というものほど大事なものはない。

他国の内紛に深入りして加担するする者は結局その内紛の直接の影響をうけて自分をも国をもほろぼすことになる

いやな男を位打ちにするというのは、貴族の常套手段であった。

味方の兵数をふやすことが将士の仕事であり、このため、戦いの前に外交上のあらゆる策を弄した。

黄土は植物の成長に必要な鉱質物を多量にふくんでいるのと水もちがいいために農業にもっともよく適して、この大陸に巨大な農業文明をそだてたが、一面、水蝕されやすい。水食されると、ほぼすいちょくの谷壁をつくって陥没し、配置に巨大な穴(あるいは谷)をつくってしまう。