哲学書と思ったら、エッセイでした。
学問と思ったら、思想でした。
ほとんどなに言ってるかわからない…。
この本では「死にいたる病=絶望」ということで話を進めていきます。
でも「絶望」の定義付けができてないので全体的にハナシがあいまい。
論理もなんだかよくわかりません。
そしておそらく、キェルケゴールが想定している読者はキリスト教徒なので、ぼくにはピンときませんでした。
論理がないからこそ、特定の人には響く本なのだろうなと思います。
佐藤優が
プロテスタント神学にのめり込んでいく学生には共通した特徴がある。
プラトンとアリストテレスでは、プラトンのほうが好きだ。
デカルトとパスカルでは、パスカルのほうが好きだ。
カントとヘーゲルでは、カントのほうが好きである。
そして、キェルケゴールとマルクスではキェルケゴールの方が好きだ。
しかし、わたしの場合、アリストテレス、デカルト、ヘーゲル、マルクスのほうが好きなのである。
どうも普通の神学生になれないのである。
ということを言っていたけれど、
キェルケゴールがプロテスタント神学生に響くのはこの本が思想書だからなんだろうなー、
と原書をあたって分かった気がする。
でも佐藤が、キェルケゴールとマルクスを対比させた意味はまだイマイチつかめないなー。
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林修は「はっきり言って、おれは本を読まない人は嫌いだ」
ちきりんは「本を読まない人は私には話しかけないで、って感じ」
というようなことを言ってました。
上の2人はメッチャ本を読んでて、尊敬して見習いたいけど、
そんなことはぼくは言いたくないなー。
なんだか狭量に思える。
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『死にいたる病』では、一番最悪の「死にいたる病=絶望」状態の人は、
自分が絶望状態にあることを知らずに日々を楽しく過ごしてる人、
ということになっています。
キェルケゴールにも、林修とちきりんの読書観に通じる狭量さを感じました。
本を読んでも読まんくても、おもしろい人はおもしろいし、楽しい人生過ごせる。
自分がホントは絶望状態にあるって自覚しても、しなくても、人はいつか死にいたります。